全員警告って?
サッカー日本代表すごいですね。
前評判を覆し、決勝トーナメント進出!
色々意見もあるかもしれませんが、喜びましょう。(私は大いに喜んでおります)
ちなみに私の大会前の予想は、一勝2分けで予選突破。
この予想ほんどですよ。サッカー好きの友人にメッセージで送ってますから。
ちょっと違いましたが、なかなかの予想でしょう。
まあ、予選リーグについては様々な方が意見を発信されていますので、これくらにして。
今日はそのサッカーについて、高校時代のちょっとしたエピソードを書きたいと思います。
私は高校からサッカーを始めたんですが、(前回のブログに書きましたが、普通落ちるはずのない剣道の初段試験に中学時代に落ちたため)当時のわが校のサッカー部はかなり弱い状況でした。
所属していたのは、福山市の高校リーグの2部でした。
私の1つ先輩の代から少しづつ強くなり、私が2年の時にその先輩たちの力も借りながら、最後になんとか1部との入れ替え戦に出場することができました。
そしてその重要な試合で、今から思えばあり得ないジャッチがありました。
お互い負けられない試合で、かたや1部残留を、かたや一部昇格をかけた激しい試合です。(J1とJ2の入れ替え戦ほどじゃありませんが)
お互いかなりエキサイトしていき、激しいスライディングやら暴言やら。
確かに危険なプレーなどもあったと思います。
主審もなかなかコントロールが難しかったのだろうという気がします。
まあ17・8歳の怖いもの知らずの血気盛んな時でしたから。
そしてついに主審も、あきれ果てたのでしょう。笛を吹いていきなり、
『ええ加減にせえ。おまえら全員警告じゃ!』
あろうことか、全員警告ですよ。
その時主審はイエローカードに全員の番号を書いたのだろうか。
と今思い出しても、そんな時間はなかったはずですから、たぶんカードに、
『両チーム全員警告』
って書いたんでしょうね。
サッカーと言えば警告は付き物ですよね。今回のワールドカップも日本はその少なさで決勝トーナメントに行けました。
でも、全員警告って。。。。。
試合の方は残念ながら負けてしまい、念願の1部昇格は果たせませんでしたが、これもまた懐かしい思い出です。
そうそう、その相手の高校がたぶん、あやさんの母校だったような気がします。
そして今もシニアチームで一緒にサッカーしている人に中に、この時の試合で一緒に戦ってくれた人がいます。
うれしいかぎりです。
さて、火曜の朝は運命のベルギー戦です。
って言ってくださってます。
すごく力強い言葉です。
とにかく一発勝負ですから、アグレッシブに戦ってほしい。
そしてもう一度世界をアッと言わせてほしい。
でも全員警告にはならないでね(笑)
中学時代のこと覚えてます?
前回は小学校時代の、ちょっと情けないお話をさせて頂きました。
今回は中学時代のことを少し書こうかと思います。
私の兄の時までは家から歩いて行ける場所に中学があったんですが、私の時には合併があって歩いては行けない場所の中学に通うことに。
車で行ったら30分ぐらいのとこなんですが、交通手段がないため、寄宿舎(寮)に入ってました。
毎週月曜日に行って、土曜日に家に帰る生活です。さすがに初めのころは、家が恋しくて寂しかった覚えがあります。
でもその頃寮に一緒にいた友人とは今でもたまに飲みに行ったりしてます。
今から思えばいい経験。
剣道部に入り、あのくっさ〜い服と防具を毎日つけて、叩き叩かれしてました。そこそこ強かったんですよ。
でも中学時代に、普通落ちる筈のない初段に落ちて、高校ではサッカーを。
まあでも、それで今でもサッカーできてるんで良かったかもですが。
さて、そんな中学時代を過ごしていた私ですが、なつかしい思い出を一つ。
掃除時間の時の出来事。
教室の窓の外に、ベランダらしきところがあり、そこでいつもサボって、ジュースの蓋(当時は王冠だったかなあ)を使って2メートルぐらいの距離でサッカーをしてました。
ゲームセンターにある、エアーホッケーを足でやるようなもんです。
いつも仲の良い4人でやってたんですが、ある日突然担任の先生に現場を押さえられました。
それまでは全く気配も無く、見つかるわけないとみんなたかをくくっていたんです。
やはり、悪いことはできませんね。
先生が「おまえらそこへ並べ!」
と大声で。
あちゃ〜
しかたなく並ぶと、順番に平手打ちを。。。
痛・痛・痛・痛〜
今なら体罰じゃあ、って親が怒鳴り込んで来るんでしょうが、恥ずかしくて親になんぞ言えませんでしたよ。
でも野球部の顧問をしてる先生で、腕力はありましたが、ちゃんと手加減と耳に当たらないよにしてくれたように覚えてます。
これもまあ、いい思い出です。
しかし、なんとも、しょうもないことを覚えてるもんですね。
やっぱりそいうもんでしょうか。
子供の頃の自分ってどんな子だったか覚えてます?
よくテレビのインタビューなんかで、芸能人やスポーツ選手が、
『子供の頃の私はめちゃくちゃ人見知りでした』とか『だけど好奇心は人一倍強かった』
なんて自分のことを話してるのよく聞きます。
じゃあ私はいったいどんな子供だんだろう?
簡単には言い表せない気がします。
でもここはひとつ50年前にタイムスリップして、そのころの自分を思い出してみようと思います。
まずは可愛かった?小学校時代から
私の通った小学校は、全校児童が30人前後のちっちゃな学校。複式学級(1年生と2年生、3年生と4年生、5年生と6年生の3つの学級に分かれて授業を受ける)の学校でした。
先生は校長先生、教頭先生ともう1人女性の先生だったと思います。
確か同級生は8人で、女子が6人。女子が多い小学校でした。
そんな田舎の山奥で育った私ですが、母親はよく私のことを、人前でしゃべったり、周りの人に気の利いたことが全然できない子供だった、って言ってました。
自分ではそこまで人見知りで気の利かない子供だったとは記憶してないんだけど。
だって児童会長もしてたんですよ。
でも親にはそう見えたのかも。
ただ、少し違うけど、私の子供の頃を(ひょっとしたら今も)を象徴するような失敗談をお話しします。
そう、あれは冬の寒い日、雪はすでに30センチほど積もってました。
小学校の授業が終わり、方向が同じ友達3人ほどと一緒に下校中。
雪が積もった時は田舎では定番の、みんなで立ちション!
4人で気持ちよく雪に文字書いてました。
すると近くに止まってた車からおっちゃんが出てきて、
『お〜いお前ら』
あ、こりゃおこられるんか?
と思いきや、
『車が雪にはまって動かんのじゃ、ちょっとおしてくれんか』
なんだ、そういことか、そこで他の3人は立ちション終了してすぐに車を押しに。
でも私は一瞬怒られるんじゃないかという最初の恐怖からか、立ちションがなかなか終了せず、車が脱出した直後に参戦。
車は無事脱出。
おっちゃんは、他の3人に、ありがとうと言って、10円をくれたんです(10円で当時はアイスクリームが買えた)。
私も一応最後だけちょこっと押したんで、ということで10円もらいにいたんですが。。。
おっちゃんは、
『あんたあ何にもしとらんけえ、やれん』
えええええ!
子供心に、めっちゃくちゃな敗北感。
もうちょい早く立ちション終了してたら。。。
こんな少年でした。
でもなんでこんなしょうもない事おぼえてるんかなあ。
と考えてみると、どうも今も時々近い事件があるようで。
それで思い出すんでしょうかねえ。
なんかいざという時、1人取り残されてるような孤独感。
仲間に入ってそうで、忘れられてるような寂しさ。
でも結局人間一人で生まれて一人で死んで行くんだし。
なんて無理やり自分を慰めに。。。
まあ、まわりを必要以上に気にするのはやめようっと!
ということで、本日は小学校時代の珍メモリーでした。
私は何故今の仕事をしているんだろう?
かなり久しぶりの更新となりました。
GW明けからサボリぐせが。。。
さて、みなさんは何故今の仕事をしてるんだろうって考えたことあります?
ふとそんな事が頭をよぎり、自分のことを書いてみようと思い、今日は書き始めています。
わたしは今56歳。もう社会人になって34年以上たちました。
最初は広島の私立大学を卒業し、薬の卸会社に就職。でもこの就職の時もちょとした失敗がありました。
このころは、仕事は選ばなけりゃ何でもある時代で、ほとんど就職活動もせず、4年生の秋口からやっと実際に動いたような気がします。
結局、一応本命の農協、生協、そしてアパレル系を受けました。
生協は最初に試験を受け、あっさり落選。アパレル系はすぐに合格出してくれましたが、農協の結果待ちのため一旦断り、でも農協が落ちて、再度アパレル系の会社にお願いしたらもう他の人に決まってしまったと言われ。。。
そりゃそうですわねえ。そんな虫のいい話はありませんわ。
でも、楽勝と思ってた就職が一転、暗雲立ち込める事態に。
流石に就職出来ないと、学費を出してくれた親に顔向けできん。
そこで思い出したのは、大学のクラブの先輩が行っている薬品の卸会社。
ひょっとしたら、まだ募集してるかも。
運良くまだ募集しており、先輩の口ききもあり無事就職。
やれやれ、一安心。
まあそんな、すったもんだのあった私の最初の就職活動でありました。
でもこの会社には4年弱しかいませんでした。配属となった場所が広島市ではなく、呉市(仁義なき戦いの舞台となった場所です)だったことや、仕事の相手がお医者さんということもあり、少しづつ転職を考えるよになっていました。
そんな時、またクラブの違う先輩から声がかかり、今いるアパレル系の会社の広島営業所に来ないかと誘われ、一度はアパレル考えたんだし、広島に戻れるならというのもあって、転職したのです。
それからかれこれ30年以上です。当然転勤やら出向やら、転籍やらいろいろ経験して今に至るというわけです。
そして最初書きました、何故今の仕事をしてるのだろうと考えてみると、やはり縁があったのかなあ。という結論なのでしょうか。
あやさんと結婚したのもこの会社にきたからだし。
でも、この会社に引っ張ってくれた先輩は他界してしまい、広島の営業所もすでにありません。
時代はどんどん変わって行ってます。
私自身も何か変わらないと。
さもないとどんどん取り残されて行くんじゃないかと不安にかられます。
縁を大切に、出会いを大切にしながら自分も、環境も変えていけるようにしたいですね。
そして好きな事を仕事にできたらなあ〜
そんな夢みたいなこと。って思われるでしょうが、まず思わなけりゃ実現はしないでしょ。
よし、もっともっと好きなこと見つけて、やってみようっと。
比内鶏の丸焼き
GW最後のイベントはあやさん実家にての焼肉パーティとなりました。
あやさん兄の家族6人参加のにぎやかな焼肉。
今回は秋田のあやさん姉が送ってくれた比内鶏を丸焼きにするという贅沢なオプション付き。
朝10時前頃より準備に。
りっぱな鶏ですが、どうもお辞儀しているように見えてしまい、こんないたずらを。
この鶏のおなかの中にピラフを入れて、レンジで焼くこと約1時間。
こんなに美味しそうに焼き上がりました!
この鶏の準備の間、私は用無しの状態。
そこで、先日植えたアスパラが生えてきたとの情報を得たため、写真を撮りに。
これはもう収穫できるんじゃない?
と、素人の私たちは思ったんですが、あやさん父が、「馬鹿なこと言っちゃいかん。最初に生えてきたやつが幹となって、秋か来春に出てきたやつがようやく収穫できる」とのおしかりを。
はは~なかなか素人ではわかりません。さすがセミプロのあやさん父です。
とはいえ、なにはともあれりっぱに育ってきてくれているので、楽しみです。
さて、その後はどちらの家でも同じように炭で火をおこし、子供たち中心のメニューから焼きはじめ、ビールを飲みながら最後に
”比内鶏の丸焼きピラフ入り”
を食べて終了。
今回のGWは、長崎のサンフレツアーから始まり、サッカー公式戦、タケノコ掘り、焼肉と、いろいろとイベントの多かったお休みとなりました。
満足満足。
でも少し疲れたので、本日GWの最終日は家でま~ったりとすごします。
明日からまた通常の生活にもどるんで、ガンバって頭きりかえて。
たけのこ三昧・孟宗竹と淡竹
《筍には、孟宗竹と淡竹という2種類がありどちらも味が異なりうまい》
GWの後半がはじまりました。
3日は憲法祈念日。色々と憲法のことでざわざわしている今日この頃ですが、やはり世界に誇れる平和憲法は大事にしたいですね。
さて、後半の始まりはまず私が所属している広島県シニアサッカーリーグの公式戦。
その隣にある補助グランドでの試合でした。
相手は、強豪の広島四十雀サッカークラブ、昨年は完敗。
今年はリベンジを。意気込んで試合にはいりましたが、なんと速攻で前半10分に我が福山こうもりSCが先取点!これはいける。
でもここからが大変。毎年優勝争いをしているチームに火をつけてしまい、猛攻を受けることに。でも前半はなんとかしのいで1-0で。
しかし後半耐え切れずに失点。
でもそこからみんな必死に耐え、なんとか引き分けで終了。勝ち点1をゲット!
最低限の結果は残せました。
その後中国自動車道を通り、途中サンフレの練習場のある安芸高田市吉田の親戚で墓参り。
毛利元就のお墓のすぐそばです。
そして一路実家に。
今日のテーマであるタケノコ掘りに。
中国地方では、竹の種類が2つあって、孟宗竹(モウソウチク)と淡竹(ハチク)といいます。
孟宗竹はかぐや姫が生まれてきたような、かなり太い竹になる種類。
そして淡竹は、あまり太くならない種類です。
味は孟宗竹がえぐみもあり、しっかりした味。逆に淡竹は割とたんぱくでえぐみもなく、あく抜きをせずにそのまま食べれるんです。子供のころはこの淡竹をよく朝の味噌汁に入れて食べてました。
今回のタケノコ堀は孟宗竹。ちょうどGWの時期ににょきにょきと生えてきて、イノシシ君との堀あいの競争となります。
(淡竹の方は5月後半ごろです)
イノシシくんは鼻がいいので、土の上に出てきていなくても、臭いで見つけて掘って食うんです。地上に出てないのが柔らかくてすごく美味しいのを知ってるんですねえ。
早速竹藪に入り、朝のサッカーの試合で少し痛めた腰をかばいながらですが、急斜面でクワを打ち込みつぎつぎとゲット!
この子たちをまずは釜茹での刑であく抜きをします。
お湯が手をつけれるぐらいに冷めてきたら取り出して、皮をムキムキします。
なかなかこれが、まだ皮の中は熱いので、あっちっちって言いながらむきます。
こんなにゲットしました。
タケノコは、掘ってすぐにあく抜きをしたのが一番おいしいそうです。
でもここまで、私が一人でやったみたいに書きましたが、掘るのは手伝いましたが、あとはほとんど兄夫婦がやってくれました。
ありがたいことです。
そしてこの夜は早速、焼肉の際に一緒に焼いて初タケノコを頂くことに。
あやさんは、食べながら西を向いて
かっかっか~って笑ってました。
どうやら初物を食べるときに西を向いて笑うと、1年健康にいられるそうです。
翌日の朝は、タケノコご飯にタケノコ味噌汁、&山椒の葉をすり潰した薬味をつけたタケノコの刺身と、タケノコ三昧の朝食。
これからしばらく朝昼晩とタケノコづくしで、うれしい限りです。
実はこのタケノコ三昧にはおまけがありました。
タケノコをゲットして家路につきましたが、しばらくすると友人が、タケノコ掘ったからって、米ぬかつきで持ってきてくれました。
そしてそしてまたその一時間後に違う友人か、タケノコ取れたからっていって今度はあく抜きまでして持ってきてくれました。
これこそほんとうに、タケノコ三昧です。
タケノコの神様
ありがとう!!!
ヒロシマ&ナガサキ平和都市 旅紀行VO.3
《平和祈念像》
ヒロシマでは原爆ドームがシンボルですが、長崎ではこの像が爆心地にある。
高く掲げた右手は原爆の脅威を
水平に伸ばした左手は平和を
軽く閉じた瞼は犠牲者の冥福を祈る
by芹澤和美
午後からの旅はここ平和公園からスタート。
あまりはこ観光客の人はこの時は多くなく、写真も取れました。
外国人の方も英語の説明書きを真剣に読んでました。
73884人
の方がナガサキの原爆で亡くなられました。二度と戦争がありませんように。
さて、平和都市紀行も終盤です。
好きなサッカーを平和都市で見ることができ、気の合う友人たちと旅ができる、こんな幸せに感謝しなくては。そんなことをふと思う平和公園でした。
次に長崎中華街。
横浜の中華街は一度ちらっといったことがありますが、長崎は初めて。
人が多い。。。
まずはその前にちょこっと眼鏡橋に。
岩国の眼鏡橋とは全然ちがうけど、これはこれで風情があってなかなかのもんです。
かなり迫力のある門。そして大勢の観光客。
生めんのちゃんぽん麺セットと、紹興酒を購入。
そして、最後はやっぱりグラバー園でしょう。ということになり、ここは友人たちとは別行動で、あやさんと二人でゆっくり見させてもらいました。
上からの眺めは最高!
一番上までエスカレーターで上がれるので楽ちんでした。
これがグラバー邸です。
ほかにもいろんな建物があって、上から降りながらいろいろ見て歩けます。いいデートコースになりますね。
グラバーくんともツーショットいただきです。
こうして我々の平和都市サンフレ観戦温泉旅は帰路につくのでした。
最後におまけの写真です。
グラバー邸の門の手前にあったハートの石。
そしてシュールなお釈迦様
こりゃあ、ヒロシマ帰ってもええことありそうです。