かん吉めがね

日々の出来事を書きながら、たまにはいつもかけてる眼鏡をはずして、気づいたことを少しづつ書いて行こうと思います。

人生の重要な?分かれ道について。

今日は大学時代の陳プレイを書いてみたいといます。

 

私が通った大学は、広島市の郊外(広島ビックアーチ・今のエディオンスタジアム)の真向かいの山の中腹にあります。

 

広島修道大学という学校で、昔は広島商科大学という名前でしたが、私が入学する5年ほど前に名前が変わりました。と言ってももうかれこれ40年ほどもたちますが。

 

有名な出身は、フォーク界の大御所 ”吉田拓郎” そしてミュンヘンオリンピックの100M平泳ぎ金メダリストの”田口信教”です。

 

さて私の事に戻りましょう。

大学受験の際、私は理系か文系か迷っていました。模擬テスト受けてもどっちとも言えず、結局文系2校、理系2校を受験したのです。

 

そして受かったのは文系2校。

 

ここで第一の人生の選択がありました。以前ひょっとしたら書いたかもしれませんが、結局通うこととなった修道大学ではないもう一校の方は、兄が通っていた学校でした。私の家は神主の家のため、神主の資格も取れる大学に兄は通っていて私もそこを受けたのでした。

 

もし、兄の通っていた学校を選んでいたら、1年は兄とダブっていたし、しかも兄は優秀だったので、ひょっとしたらちやほやされ。。。全く今とは違う人生になってたかも。。。

良くも悪くも。

 

でもそこで変なあまのじゃくが出てくるんですよ。

不思議なもんで。兄と同じレールは。なんてカッコつけて。

 

でもほんとに兄の学校にいってたら違う人生だった気がします。

 

ただ、もしそうしてたら、あやさんにも会えなかっただろうし、今のステキな友人たちともあえなかったんで、これはこれでやっぱり必然だったんでしょう。

 

さて、そんなこんなで選んだ大学に入りましたが、そこでまた一つ選択が。

クラブは何に入ろうかと。

 

高校時代は、サッカー部(中学時代に剣道初段落ちたんで)だったんで、一応サッカーも考えました。

そしてもう一つは音楽関係。当時のフォークソングが大好きだったんで。

 

でも結局選んだのはフォークソングクラブ。

サッカー部は、

『根性のないやつははいってくるな!』

っていう感じのかなりマジなクラブのようでしたので、ついつい心が楽なほうへ。。。

 

ありゃ~。剣道初段落ちて、やめた時といっしょじゃん。

 

まあ、性格はそう簡単にはかわりませんわ。

 

そして見事フォークソングクラブにはいり、ほとんど毎日クラブハウスに行ってギター弾いてうたってました。運よく才能あるやつと二人でコンビを組むこともでき(実はその相棒も神主の息子だんたんですが。偶然にも)オリジナルを作って毎日練習の日々でした。

ほとんど授業には出ず、必修の語学や体育ぐらいしか。

 

でも、1回生の試験では、単位を落とすこともなく、ほぼ全部取得できました。

 

そしてこの時『な~んだ。大学って簡単なんだ』っていう錯覚に。

 

1回生の時は一般科目で専門科目ではないため、授業にでなくても、わりと簡単に単位が取得できたんです。

この落とし穴にはまったのが2回生の時。

 

一回生の時と同じく練習ばかりで授業には出ず、試験が終わってみたら半分も単位がとれず。

 

挙句に学生科から呼び出され、3回生も同じような成績だと奨学金が打ち切られるって。

 

え~!!!!

 

そう、奨学金をもらってたんです。

こりゃあやばい。

親に顔向けできん。しばかれる。でも3回生はクラブが一番忙しく授業に出れない。

あ~どうする。

 

しかたない。持つべきものは同級生の女子の友。

同じクラブの女性陣は、3回生になってクラブをやめてたので、授業にもでており、頼み込んでノートのコピーをひたすら収集。

12月の頭にクラブの最後のコンサートが終わるまでは勉強はできなかったけど、コピーだけは集め、コンサートが終わり後輩に受け継ぐ打ち上げコンパなるものをした翌日から、1か月間、生まれてこんなに勉強したことないっていうぐらい、勉強しました。

 

おかげさまでなんとか予定の単位は取得でき、奨学金打ち切りや3回生終了時点での留年という親に言えないような事態だけは避けることができました。

そしてなんとか4年で卒業することに。

 

いや~人間せっぱ詰まればやるもんじゃと自分でも感心の一か月間でした。

 

まあ、せっぱ詰まってそうなる前にもちっと 考えるべきですが。

 

でもこの教訓がはたしてこれまで生かされてきたのだろうか?????

 

でも、無事で、それなりに楽しく生きているのでよしとしよう!